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クライナー=ヨーゼフ・田畑千秋共訳『ドイツ人のみた明治の奄美』(ひるぎ社)を読む

 奄美に来てから、知人にいただいておきながら、本棚に置いていた本でした。
明治中期の1880~90年頃に奄美がドイツ語圏から注目を浴びたことをテーマにした本です。
どういう意味で奄美が注目を浴びたのか、そして明治中期の奄美の風俗を知るには面白い本でした。以下、なぜ明治中期に奄美がドイツ語圏から注目を浴びたのか、そして東京帝国大学でドイツ語を教えていた生物学者ドゥーダーラインがみた滞在した奄美での16日間の記録から明治中期の奄美の様子をいくつかまとめてみます。

1.明治中期に奄美がドイツ語圏から注目を浴びた理由
 ドイツでは古くから宗教的に椰子の葉を葬儀の際に使う習慣があったようです。もとは上流階級の葬儀で使われていたものが、ドイツの工業化に伴い、資産階級や庶民もこの習慣をはじめるにつれ、椰子の葉不足に陥り、それによく似た蘇鉄の葉が注目を浴びるようになったとのこと。奄美には今でも蘇鉄の群生がありますが、奄美の蘇鉄をワーグナー、ウンガーがドイツに輸入して成功をおさめます。ではなぜ、奄美の蘇鉄なのか?それは明らかにされていません。ドイツ政府もこの輸入貿易に目を付け、蘇鉄輸入に高関税をかける政策をとったため、ウンガーは、奄美に今でも生えているテッポウユリに注目します。これをキリスト教の復活祭にあわせてアメリカに輸出して成功するわけです。こうして奄美の植生がドイツ語圏の注目を浴びたようです。

2.ドゥーダーラインがみた明治中期の奄美
ドゥーダーラインは1880年に奄美大島に16日滞在します。その間、加計呂麻で6日間台風による足止めを食うわけですが、くしくもそのことで滞在した家主から奄美について様々な情報を聞くことができ、また自らの目で確認することができたようです。
 1)船便
 神戸~鹿児島 約72時間  鹿児島~名瀬 約36時間 名瀬~那覇 約30時間
 2)名瀬の様子
 山間の広い谷間で農業が営まれていることを予知させた。まわりの全てがなぜだか荒々しい原始の雰囲気を醸し出している。
 3)農業
 多く栽培されているのは、稲・サトウキビ・サツマイモ・芭蕉・ピーナッツ
 たまに栽培されているのは、とうもろこし・竹・百合・タマネギ・里芋等
 4)風俗習慣
 常に親切。ただ2~3時間、2~3日延ばすことができないものはない、という彼らの考え方には慣れなければならなかった。途中で会う人のほとんどが立ち止まって挨拶した。こういうことは日本では稀になった。日本では殆どどこでも女性が応接する食事の際も、大島では男性ばかりが応接した。名瀬だけそんなに厳しく守られていない。大島の女性は手の甲に入れ墨をしている。
 5)家屋
 必ずある便所も常に住宅から2・3歩離れていて、日本のように住居と同じ屋根の下にあったことが一度もなかった。直接、床となっている畳の上に寝る。
 6)食事
 主食はサツマイモと米。添え物として干した魚などである。トウフは大島では食べられていないらしい。私はこの食品を名瀬だけで添えられた。アルコールは沖縄からの泡盛か、蘇鉄焼酎(蘇鉄の実を発酵させた)である。
 7)畜産
 山羊が飼育されるようになってからそう長くない。しかし、山羊がよく脱走したり、薩摩芋畑を荒らすので、いくつかの地域では山羊飼育をあきらめようとしている。鶏は少なくないが、値が高い。
 8)商業
 大島では3年前(1877)まで金の使用がほとんど知られていなかったという。商業は純粋な物々交換であった。現在も少なくとも部分的にはそうである。

 平地の少ない奄美では、山が多く集落を「シマ」と呼ぶほどである。ドゥーダーラインもその移動には苦労したようである。山羊料理は沖縄のみならず、奄美でも食材として売られています。私の勤務地も校舎にトイレはありません。校舎を出ないとトイレはない。築40年ほどですが。
トゥーダーラインの記録は何せ16日の滞在ですから、人々の様子等まで詳しいことは書かれていませんが、奄美が貧しい状態であったことも書かれています。そして約10年後、フェリペ神父が来奄し、布教活動に入るとともにキリスト教が広まっていくことになります。
 名瀬市史をはじめ名越左源太『南島雑話』、坂口徳太郎『奄美大島史』、柳田国男『海南小記』など有名な奄美関係の本はまだ殆ど目にしていませんが、こういう視点からの奄美もまた悪くないな、と思いながら読みました。

by maksy | 2007-07-25 20:44 | 書籍・雑誌  

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